『ラジウム・シティ』と日本の今
  河田 昌東(NPO法人チェルノブイリ救援・中部理事)

 このドキュメンタリー映画の舞台は1920年代、第一次世界大戦後のアメリカ・イリノイ州のオタワという町に作られたラジウム・ダイヤル社(RD)の女工たちの物語である。ラジウムはマリー・キュリーが発見・命名した最初の放射性物質として有名だ。余談だが、マリー・キュリーは白血病で亡くなり、夫のピエール・キュリーも被曝によるいわゆる「ぶらぶら病」で馬車に跳ねられ死亡している。このラジウムが、当時のアメリカでは暗闇で光る夜光時計の蛍光塗料として使われ、広く海外にも輸出された。女工たちはラジウムが危険なものとも知らず、支配人に言われるままにラジウム塗料を筆につけ、口で穂先を尖らせて時計の文字盤に塗った。時計一個当たり数千~10万ベクレル塗ったといわれる。その結果、彼女たちは体内に大量のラジウムを取り込み内部被曝した。ラジウムは化学的性質がカルシウムと似ているため骨に蓄積し、やがて貧血や骨癌、骨肉腫、免疫不全による感染症などが多発し多くの死者がでた。こうした状況下にもかかわらず、1929年に始まる世界大恐慌直前の不景気の中、この工場の高給に惹かれて大勢の女工たちが働いた。その数は数千人と言われる。死を免れた女工たちはやがて裁判を起こし「ラジウム・ガールズ」と呼ばれた。RD社は敗訴し1万ドルを払ったが、社名をLP社と変えて別の町でラジウムを加工、原爆の起爆剤(中性子発生源)ポロニウムを生産して巨額の富を築き、創業者のケリーは第二次大戦後大富豪となっていた。

 私がこの映画を見て衝撃を受けたのは、福島原発事故後の今の日本と状況があまりにも似ていることである。女工たちは病院に行っても「原因不明」とか「単なるジフテリア」とか「ラジウム中毒は一切ない」と言われた。医師たちの本音は「事実は公表できない。本当のことを言えば職を失う」というもので、診断結果は患者には一切知らせなかった。オタワ市当局は町の産業の悪評を恐れて問題があっても他人には言わない、波風を立てない、といった対策をとった。福島では今、18歳以下の子ども達に甲状腺がんが多発しており、これまで38万人の甲状腺検査の結果、悪性又は悪性疑いの患者は118名、そのうち88名が手術を受けた。既にリンパ節や肺に転移した方もおり、緊急性のある手術患者もいた。発生率は10万人当たり30~40人で、通常100万人当たり3~4名と言われる小児甲状腺がんの100倍に及ぶ。因みに、国立がんセンターの統計では原発事故以前には福島県内には一人の小児甲状腺がん患者も居なかった。にもかかわらず国や行政はこれらの甲状腺がんは放射能と関係ない、と主張している。福島県内在住の人々は、風評被害を恐れて日常会話で被曝や放射能に触れることを避けざるを得ない状況下にある。

 第二次大戦後の1948年、米国立アルゴンヌ研究所はオタワの女工たちの生存者や死亡者の墓を掘り起こして調査分析を行ったが、その結果は患者・遺族には一切知らされず治療も行われなかった、とこの映画は証言している。これは戦後、広島の被爆者らを調査したABCC(米国原爆傷害調査委員会)のやり方そのものである。広島の被爆者らに対する対応はこのラジウム・ガールズに対する対応で決まっていたのだった。

 映画はこれからの日本の未来をも予言している。汚染したRD社の工場やLP社の工場は戦後一部解体されたが、汚染廃棄物の処分場は作られることなく、瓦礫は市内各所の地下に埋められたままである。その結果、今も市内各地に放射能の高いホットスポットが存在する。RD社の跡地にはアスファルトが敷かれ市民はそれと知らずに暮らしている。こうした状況を自力で調査する市民グループに対し、市長は「測定は市の評判を落とす」と暴言を吐き、マスコミも「これ以上騒ぎを大きくしたくない」と言い、市議会原子力安全部も「瓦礫を完全に除去するのは不可能、皆で問題を解決しよう」と主張した。今の日本の状況と何と似ていることか。都合の悪い事実を覆い隠し、放射能は「アンダーコントロール」と主張してオリンピックを誘致した安倍総理、「汚染廃棄物はとりあえず中間貯蔵施設に集め、30年以内にすべて福島県外に搬出する」とした無責任な政府と官僚、「原発廃棄物処理は電気を使った国民皆の責任」と主張する原子力村の専門家たち。ラジウム被害の過去は日本の未来を暗示しているようだ。