映画『ローリング』
  腐れ縁の成れの果て   豆 小町

 そういえば水戸ってどこだっけ?……と、愛用の高等地図帳・改訂版を思わずめくった。申し訳ない、想像してたよりずいぶん東京に近かった(汗)。東京から特急で1時間半の地の利とのこと。なるほど、もしかしたら、首都へ向かうのに“旅”という感覚にまで至らぬ距離だから、こんな風に仕立てたくなるものかもしれない。水戸が蜃気楼みたいな街として映画に現れる──。

 冨永昌敬の『ローリング』は、水戸を舞台にした元高校教師と教え子たちのドラマである。冒頭の10分をご覧になれば、おおよその人間関係は見当が付き、かつドラマのトーンやオチさえも事前に把握できる合理的な映画だ。しかも主役のナレーション付きで進行ですよ! こんなに観客を甘やかしていいのか?……冨永監督は実にお優しい。つまり裏を返せば、それだけ勝負パンツ(!)をはいて始まる映画なのである。

 さて、そんなキモとなる冒頭に何が提示されるかというと── ①ありふれた夜の盛り場。②手をつないで、逃げる男女。③2人を狙う追手の群れ。④窮地を救う第三者の登場。⑤過去の不祥事と現在の境地の解説 ──である。逃避行の果てに何が待ち受けるのか、その背景と結果を先にお披露目し、あとは温泉にでも浸かる気分でボクの打ち手を眺めていてね~……と、監督の声が聞こえてきそうなダンドリだ。で、その通りに楽しめるからお見事というよりほかはない。ここまで手の内を見せておきながら退屈させないのには理由がある。まず、全部を反対に置いたこと。逃げるのが、教え子ではなく元教師の方で、校内で女生徒たちを盗撮し、10年前にクビになった男という設定だからだ。スネに古傷が残っていて、そのうえ今もハレンチで、東京から美人キャバ嬢を連れて水戸に舞い戻るプライドのなさまで、我々の心を躍らせる要素が盛りだくさん。そして、懲らしめてやろうと結集する奴も、ツイ救いの手を差し伸べてしまう奴も、はたまた先生をきっかけに幻想を断ち切ろうとする奴も、敷かれた布陣のメンツはみんなかつての教え子たちで、高校生活番外編の趣きに仕立てられているのだ。細かなところまで、なかなか念入りだしね。アロハ姿の先生を前に、おしぼり業者の貫一くんが社会人らしい振る舞いで処するところとか、憐れを誘う演出に技が光る。あるべき姿を刻印される職業の人が転落すると、お気の毒だが負の効果は倍増(苦笑)。『秋刀魚の味』には及ばぬまでも、先生の末路をいたぶる感覚は、かなり残酷で後を引く。

 とはいっても、設定を逆さにするだけでは間は持たない。そこで、水戸と高校生活の再演を懐かし話で終わらせず、もう一段レイヤーをズラした奇怪な手触りにするために、外部から揺さぶりを施す。はい、もちろん東京からの“魔の手”という形を借りてである。成功して水戸を離れた教え子のタレントが、例の盗撮映像に映っていて、そのスキャンダルを所属芸能事務所に買い取らせようと企むのだ。先生と教え子と結託して、負け組水戸VS勝ち組東京の構図でひと騒動を繰り広げる流れ。ところが、抗争になるどころか情けない内輪揉めで腰が砕けるあたりが冨永流なのだろう。ただし、手の込んだ脱力ムードに私はいまいちノレなかった。それより意外な新味を発見!

 繰り返しになるが、すでに観客にはドラマの結論は明かされている。なぜ人間がこんな突拍子もない姿に至るのか ──という謎を、頭の片隅にずっと置きながら眺めてきている。だが、監督の狙い通りに、奇異なエンディングをすんなり受け入れてしまうとは……我ながら驚きだった。埋葬する教え子と、ひっそり鳥の巣になった先生との穏やかなひととき。そしてそこに立ち上る一抹の侘しさと懐かしさと無常観のブレンド具合が絶妙で、蜃気楼のような街 ──水戸が、イッキにせり上がってくるのである。こんなくだらない話に何しんみりしてるんだあ! と、自分に独り突っ込みを入れながら、いい意味での監督の真面目さと抒情性にシンパシーを抱いた。

 先生と教え子の関係って、要は腐れ縁ってやつなのかもしれない。冨永監督はその成れの果てを絵にした。かつて教え子だったすべての人間の食指を動かす映画である。