映画上映者の国際交流
 インドネシア訪問レポート  酒井健宏(スタッフ)

 昨年の12月初旬、アーツカウンシル東京と国際交流基金アジアセンターの助成プログラム「多様な映画観客育成プロジェクト/日本・インドネシア交流事業」に当館(名古屋シネマテーク)から協力参加し、ジョグジャカルタとジャカルタに赴く機会をえた。日本の映画を上映しながらインドネシアの映画文化に触れるとともに、映画人や映画を学ぶ学生たちと交流を深めることが目的だった。

 参加したのは日本側の主催であるNPO法人独立映画鍋の藤岡朝子氏、そして映画監督の深田晃司氏、NPO法人映画保存協会の石原香絵氏と私の4名。到着後にタイ国立フィルムアーカイブ副代表のチャリダー・ウアバムルンジット氏も合流した。そこからインドネシア側の主催である映画プロデューサーのメイスク・タウリシア氏、映画ライターのアドリアン・ジョナサン氏、ラインプロデューサーのサリ・モフタン氏によるサポートのもと、5日間にわたり映画祭や上映イベントを巡り、貴重な出会いと経験を重ねた(なお、この3氏は私たちの訪問に先んじて昨年11月に来日し、東京・神戸・大阪・名古屋を視察する中で当館にも立ち寄っていただいた)。

 参加を決めるにあたり、私には多少の懸念がなかったわけではない。当館は地方都市のきわめて小規模なミニシアターである。自主上映団体を前身とし、1982年に常設館をオープンして以来、多様な作品の上映と紹介をなるべく積極的に引き受けている。しかし順風満帆にとはいかない。つねに映画を巡る激しい変化の波にさらされ、目の前の新しい状況に対処することで精一杯の日々が続いてきた。とりわけ近年は映画の配給・興行のデジタル化など諸々の事情から、各地の独立系映画館が閉館に追い込まれる事態が増えている。当館もその危機はたえずすぐそばにある。こうした窮状をよそに、何か前向きな提言を述べるのは(可能ではあるが)空虚なことではないかという思いがあった。

 また、私自身はしがない映像作家でもあり、愛知県内の大学や専門学校で講師を務めている。身近な地域のこれからの文化や芸術を担う人たちを前に、商業的な目的のみにとらわれない制作活動の大切さを強調するとともに、大小を問わず多種多様な作品を受け入れる観客の代表となるべきだと説く。その信念に揺らぎはない。だが、容易には超え難い壁を感じることもある。たくさんの映画が、東京を介して私たちの地域に届く。他方で、すぐ近くから「私の映画は(地元の、東京の、全国の)映画館で上映できないのか?」という質問があがると、答えに困る。それは、非常に難しいことなのだ。

 観客としての立場にも似た状況がある。「話題にならない映画を見るのは金と時間の無駄ではないか?」という、ある種の真っ当な消費者感覚や、東京から発信される雑多な情報に振り回されまいとする一種の防御反応が、鑑賞作品の選択・評価の一様化や保守化を招いている印象がある。多元的に生み出された映画たちが、皮肉にも一元的に発信されがちである状況に複雑な思いを抱きつつ、届く一方の多様な映画を単に歓迎するだけの「いい人」であり続けることに、私自身は正直なところ気疲れを感じていた。

 そんな心境の中で訪問したのがインドネシアだった。ところが、まず訪れたジョグジャカルタ(以下、ジョグジャ)で、早くも私自身の狭量さに気づかされた。ジョグジャは古都の雰囲気を漂わせる文化都市であり、大学の多い学生の街でもある。若い作家や上映者のやりとりには、首都ジャカルタに対する憧憬や羨望とともに、ときに引け目のような感情が混ざりあうことがあった。しかし、活発な意見交換や実践を通して現状を変えようという気勢がつねにそれらを上回っていた。周縁から映画を求めることの自由と制約、その両方を味わいつつ、学びの中で映画と関わる彼ら彼女らの姿勢に、深い親近感と共感を覚えた。

 ジョグジャにはシネコンはあるが、ミニシアターは今のところ存在しない。深田監督の『歓待』が第9回ジョグジャ・ネットパック・アジア映画祭のプログラムとして文化施設内のホールでの上映、松林要樹監督の『祭の馬』はドキュメンタリー映画祭(FFDジョグジャ)のプログラムとしてホテルの多目的スペースでの上映、土屋豊監督の『タリウム少女の毒殺日記』は学校(ジョグジャ・フィルム・アカデミー)の教室での上映だった。こうした即席会場での上映は日本でもよくある。ただし、特筆すべきはそこを訪れる観客たちの反応だ。時間をかけ遥か遠くから訪れる人もいれば、スケジュールの変更や遅れを寛大な態度で受け入れて待つ人もいる。上映が始まれば、誰もが直接的な反応を返しながら最後まで積極的に鑑賞し、上映後に議論の機会が設けられると、真摯に意見を述べあう光景が見られた。

 議論の中ではおもに、商業的に扱うことの難しい複雑なテーマを持つ作品をどう受容し、かつ保護してゆくべきかについて多くの言葉が重ねられた。制作者、上映者、アーキビスト、観客の垣根を越えて立ちあがる声の数々には、私自身が抱える悩みと同じものがたくさんあった。

 この印象はジャカルタに移動してからも変わらなかった。国内唯一のミニシアターである映画館キネフォーラムを会場に、『歓待』と『タリウム少女の毒殺日記』の上映と質疑応答が行われた。予定時間を大幅に超えての議論に、学生を中心とするたくさんの人が参加した。

 連日、定刻を過ぎてのスケジュール進行が続き、主催者側としては気を揉んだに違いない。それがインドネシアらしさの一つであることを、メイスクさんは謝罪とともに伝えてくれた。だが、私にとっては滞在期間を通して、まさにこの点に関して、確たる気づきがえられたと思っている。文化というものは時間をかけて生まれるものなのだ。一見して無意味や無価値だと思われる隙間にこそ文化が根をはる素地があり、制限を超えたところに広がる濃密なやりとりこそが文化の垣根を取り払ってゆく。多様な文化の共存を考えるならなおさらだ。インドネシアはそもそも多くの島々から成り、一つの国とはいえ多民族、多宗教、多言語が当然のものとして並存している。数えきれないほどある「違う」の中から、時間をかけて「同じ」を見つけ出すことが、多様でありつつ重なりをもつ文化を育んできたのだと思えてならない。

 とある質疑応答の場で藤岡さんが述べていた。多くの他者と一緒に大画面で映画を見ることの意義に関して「早送りや一時停止のできない映画館の暗闇は日常を離れることのできる神聖な場所の一つだ」と。確かにスクリーンでの映画体験には個々人が時間を制御できない公共性と、それゆえの気高さが備わるものだ。インドネシアの映画人と観客には、興味関心を超えての親密な関係、上映中に沸き起こる反応、上映後の濃密なやりとりなど、その気高い公共性を増幅させ展開しようという姿勢が数多く見られた。

 しかし他方で、映画の気高い公共性は、私たちの時間を制御し、一つの方向へと駆り立てる道具として利用されやすいものでもある。最終日に訪れたインドネシア国立映画製作所は、現在は閉鎖され大部分が廃墟と化しているが、長らく政府による映画統制の象徴的な意味合いを含む施設だった。そして、もとは太平洋戦争中の日本軍政下で、日本人の技術者の指揮により建設されたものでもある。取り壊しと再開発の是非を巡り、映画人とジャーナリストが集い議論が交わされた。歴史的遺構として重要であるだけでなく、表現の自由について考えるためにも保存が必要だと訴える声に胸が熱くなった。

 なお現在、ここはアーキビスト団体Lab Laba Labaが活動拠点とし、劣化が進む残された映画フィルムを修復、保管する活動を行っている。見学とあわせ、石原さんとチャリダーさんを交えて日本やタイでのフィルム収集と修復、保存の活動についても知ることができた。そして、インドネシアに保管されている小津安二郎監督の『東京物語』を現像当時のままインドネシア語字幕付きの16mmフィルムで鑑賞するという希少な体験をした後、いよいよ帰国の途に着いた。

 映画作家、上映者、観客のいずれの多様性についても、私としては有益な提言ができたかどうか自信がない。インドネシアの映画人と観客の姿勢から学んだことのほうが圧倒的に多かった。あらためて、日本の状況や自分が住む地域のことを考えずにはいられない。私たちは、時間をかけて多様な文化を生み出そうとしているだろうか。多様性に振り回されないために、過度な一様化や保守化に走っていないだろうか。本当は、多様性を当たり前のものとして受け入れながら、じわりじわりと「同じ」を見つけ出すことに、もっと価値を置いてもよいのではないか。

 結びとして、インドネシアと私の住む地域との関わりについても述べておきたい。愛知県は、都道府県別に見てインドネシア国籍の人がもっとも多い県の一つだ。2014年前半の統計でも約3000人、全国一位である。その多くは、自動車産業を筆頭に、工場がひしめくこの地域に来て働く人々であることは想像に難くない。いまだ受け入れたという実感を持たぬままの多様性が、実は私たちのすぐ身近にあることに気づく。どんなことを考えながら、ここで毎日を過ごしているのだろう。顔を合わせ、話してみたいと思った。もしそれができるのであれば、さまざまな映画の上映を介して行いたい。なぜなら、多様な映画体験は、その気高い公共性ゆえに、私たちの共通理解を深めるためのより有効な手だてになるはずだからだ。