若い男女の感情の重なりと行き違いを丁寧に拾い集め、彼らを取り巻く社会の変容に、巻き込まれたり抗ったりしながらも支えあうふたりの日常を描ききった『ぐるりのこと。』と、かつて亡くした家族のひとりの不在を会話の端々に感じさせながら、慎重にその話題を避け、行き場のない怒りを含む喪失の傷が癒えないままに、家族の間ならではの錯誤といたわりを共有しあう『歩いても 歩いても』。喪失と再生という、互いに響きあうテーマを持つ2作品が公開されたのと同じ年に、『きみの友だち』を見ることができる。どの映画も今年のベストテン上位を争いそうな見応えのある作品だが、同時にいずれも、そういった競争とは無縁の、静かな優しさにあふれている。順位をつけるのではなく、6月に『ぐるり』を、7月に『歩いても』を、そして9月に『きみの友だち』を見られる不思議に驚きたいというのが正直なところだ。 交通事故の後遺症で杖を手放せない恵美と、腎臓に病を抱えて登校もままならない由香。対照的な性格のふたりの小学5年生の少女が、時間を共有して過ごす5年間を中心に、同級生や恵美の弟ブン、そしてブンのクラスメートや部活の先輩といった幾人かの一瞬の挿話を、「雲」と「写真」を使って、鮮やかにつなぎ止めたのが『きみの友だち』だ。由香が「もこもこ雲」と呼ぶ雲のイメージと、その雲を探す恵美のカメラがキャッチボールを繰り返し、他の登場人物の何気ない瞬間の写真が、リズムとアクセントを加える。 20歳になりフリースクールでボランティアをしている恵美が、取材に来た青年、中原に問われて振り返る物語は、14歳から20歳の恵美をひとりで演じきった石橋安奈の凛とした(やや頑なとも思える)立ち姿と重なるように、感傷に溺れず、その時々の年齢に見合った、脆さと背中あわせの精一杯の強がりや、もどかしさにあふれている。それは恵美だけでなく、「少しだけ友達になれた」と恵美が振り返るハナ(吉高由里子の絶妙なアンバランス!)についても、ブンの先輩で、あまりにも不器用な性格の佐藤(柄本時生の不満げな表情は忘れがたい)についても、同じように鮮烈だ。 実際のところ、他人と時間を過ごす楽しさには、常にその関係自体を失うかもしれないという不安が付いてまわる。大人になればその距離感を保つことに少しずつ慣れてもいくのだが、そこに至るまでに(そして至っても)、参ったなあと呟くしかない、数々の失敗と後悔が積み重なっていく。それを思い出と呼ぶには長い時間が必要で、必要だからこそ、あらかじめ予告された喪失への不安を生きる『きみの友だち』は、少し時間をさかのぼるように描かれているのかもしれない。重松清の原作小説は、連作短編集で、章ごとに別の主人公を用意して、たったひとりに語りかけるように書かれている。だから、「きみ」はその章の主人公のことで、その友だちとの挿話を語ることで、「きみ」の人生のひと時が蘇る。「きみ」への視線と語り口はどこまでもやさしい。だから切なさも等身大のリアリティを身にまとうし、いくつかの章を読み継ぐと、作品世界の全体像が浮かんできて、一人ひとりが然るべき場所へとすんなりと納まっていく。泣いたり笑ったり悩んだりする彼らが目に浮かぶようだ。でも、あと一歩のところで、わずかな苦味を残しつつ彼らは活字の世界に帰ってしまう。それは、小説の宿命だし、同時に想像をめぐらす面白さでもある。そういった小説が映像化されると、描きかえすぎたり、あるいはあまりにも原作に忠実すぎたり、印象がずれるというか、成功することがあまりないのが現状だ。マンガや小説を原作にした映画やドラマがこれほどあふれかえっているというのに。そんな中で、出来栄えに重松清も喝采を贈ったという『きみの友だち』はめったにない成功だと思える。廣木隆一監督と脚本家の斉藤ひろしは、連作短編小説の中から幾人かのキャラクターを選びなおし、物語の構成そのものを入れ替えた上に、小説の中で手に入れられなかった物事を少しだけ彼らに手渡している。現実では、本当に手に入れたいものはあまり手に入らず、残念ながら思い出だけしか残らないことが多いのだけれども、ささやかなプレゼントは彼らを通して、私たちにも届けられる。例えばそれは、忘れられない瞬間が封じこめられた、ただ一枚の写真として。 (永吉直之 名古屋シネマテーク スタッフ) |
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監督 廣木隆一
脚本 斉藤ひろし
原作 重松清
撮影 芦澤明子
主題歌 一青窈
出演 石橋杏奈、北浦愛、吉高由里子、福士誠治、柄本明、田口トモロヲ、宮崎美子 ほか
2008年 125分