『いま ここにある風景』
 写真家エドワード・バーティンスキーに聞く
  E・バーティンスキー(以下、E) この映画は、ここ10年の自分の作品の旅路を追ったものです。それは、人間が環境に対してどんなインパクトを与えてきたのかを描くものです。映画では、主に中国という、今急激な発展を遂げ、さらには先進国で消費される製品のリサイクルの場としての役割を担っている国の風景がいかに変化したのかを見せています。しかし、決して中国を指差して批判しているのではありません。地球規模の出来事の一つの例として、今日の消費の姿を中国の中に見ているのです。私の多くの思考は、“サステナビリティ(sustainability)=持続可能性”というアイディアから来ています。今、地球上に65億人という人間がいて、このスケールがこのまま拡大していったら、どうなるのか? 今地球は、人類の一つの成功の結果として、非常に苦しんでいます。こうした現状に対して、決して政治的にならずに、誰かに責任を求めるわけでもなく、人間的で多面的な問題として問いかけたつもりです。

──写真と映像の表現に違いは?
 確かに、スチール写真には物語的(ナラティヴ)な要素はありません。壁にかけられ、静かにそこに存在しているだけです。そして、それを観ている人たちに、考えること、解釈することを要求する、そういうものだと思います。写真というものが完結するのは観ている人の頭の中なのです。自分自身のアーティストとしてのアイディアを写真に込めることは出来ますが、観た人が解釈をして初めて写真は完成するものだと思います。一方、映画には時間があり、物語がある、そして言葉があります。つまり観ている人が今、どこにいるのかという文脈(コンテキスト)を与えられているわけです。私に興味があったのは、映画では、スチール写真で不可能なことが可能になるということです。音楽・時間・空間が観客の解釈を導いていきます。ある意味ではスチール写真と比べると、映像についての見方をコントロールできるものだと言えますが、この映画では監督のジェニファー・バイチウォルは素晴らしいナビゲーションをしてくれたと思います。スチール写真というメディアを、映画というメディアでリードしたと言えるでしょう。

──冒頭のシーンに感銘を受けました。
 私がこの工場を撮影したのは、産業(インダストリー)はここまで巨大になっているということを見せたかったからです。同時に、工業先進国で磨かれた知識や技術、ノウハウを、中国では、膨大な低賃金の労働力によって成り立たせているということも見せようとしました。中国の産業の勃興、そして先進国では想像もできないような大きなスケールで産業が隆盛しているというのを見せました。そして、このオープニングの8分間ノーカットでつづくシーン(移動撮影)は監督のジェニファーと撮影監督のピーター・メトラーの素晴らしいアイディアです。この撮影方法は、自分がもともと撮影していた写真を、さらに拡張(EXPAND)するものです。私がこの8分間を気に入っている理由は、観ている人が次第に、観察者として瞑想するかのような状態に置かれるからです。この作品を決定付けた8分間であると思います。

──環境問題の中でもCO2など目に見えないものを描く上での工夫は?
 物事は、どこかから来て、どこかに行くというネットワーク(つながり)です。我々がほしいものを何か買う、いらなくなったから捨てるというとき、物には必ず、ヒストリーがあるわけです。しかし、今人間は、つながりを感じられなくなっている(ディスコネクション)。どこかに行くという意味の英語の「AWAY」はもちろん、どこでもない場所ではなく実際にあるどこか、つまり中国などへ行くわけです。自分が写真を通じてやろうとしていることは、自分の作品がそのヒストリーの架け橋となって、きちんとまたつなげる(コネクト)ことなんです。

──中国政府当局から規制や妨害などは?
 最も苦労したのは、電化製品のゴミのリサイクル作業をしている街での撮影でした。このエリアは世界的に物議を醸し出している場所ですので、非常にデリケートな状態でした。しかし後は撮りたいと思うものはほぼ全て撮れましたし、規制をかけられても、その場所を象徴するような画を撮ることはできましたので、中国政府は協力的だったという印象があります。

(6月9日 東京「COPON NORP」にて
 文責 本紙編集部)



『いま ここにある風景』解説
オフィシャルサイト

監督 ジェニファー・バーティンスキー
撮影 ピーター・メトラー
出演 エドワード・バーティンスキー ほか

2006年 87分