映画『二十六夜待ち』を観て
    鈴木 創(シマウマ書房)

 人の記憶には幾つかの種類がある。たとえば自分が経験した過去の出来事についての記憶(エピソード記憶)。物の名前や知識に関する記憶(意味記憶)。繰り返し練習した技術のように、からだで覚えている記憶(手続き記憶)など。それらは脳のなかで保存されている部位が異なるため、頭部の外傷や精神的なショックによって発症する、記憶喪失と呼ばれる症状にもさまざまなケースがあるという。

 この映画の主人公の男(井浦新)は、福島県いわき市の山中で倒れていたところを保護される。過去にまつわる記憶を喪失していて、自分の名前も思い出すことができない。それから8年、彼には杉谷という名前が与えられ、料理の技術を「手が覚えていた」ことから板前の仕事を得て、今では独立して小さな料理屋を営んでいる。

 一方、大震災の津波によって生まれ育った海辺の町での生活を失った由実(黒川芽以)は、いわき市内の親戚の家に身を寄せていた。こんな時は助け合いだからという叔母の好意に次第に心苦しさを覚えるなか、パート募集の貼り紙を見つけて杉谷の店で働き始めることになる。

 過ぎた出来事を忘れることは、生きていく上では自然なことで、忘れるからこそ前に進めるという側面もある。だが、杉谷のように、ある日を境にそれ以前のことを思い出せない、その原因も、自分がどこで何をしていた人間なのかも分からないとなれば、不安の大きさは計り知れず、社会復帰した今でも彼は苦悩のなかにいる。

 昨年公開された前作『月子』の名古屋シネマテークでの舞台挨拶で、越川道夫監督は、コードが違うもの同士が一緒に生きることの難しさと、それでも諦めずに向き合い続けることの意味を、映画を撮りながら考えていくことが自身にとってのテーマになっている、という話をされていた。

 この作品でも、お互いに心の傷と孤独を抱えた二人が、ぎこちなく、気まずい沈黙を共有しながら、ときには先走る感情をぶつけ合うようにして近づいてゆく。野の草花を摘むこと、並んで夜道を歩くこと、肌を重ねること。二人のあいだで何かが響き合う瞬間のいとしさが映像のなかに描かれている。杉谷は「自分が消えてしまいそうで怖い」「生きているのか、時々わからなくなるんだ」と打ち明ける。由実も、それまで誰にも言えなかった感情を口にする。「胸の奥で波の音がしてるの。あの日からずっと。町で暮らしていたら海なんか見えないのに。消して欲しい」と。抱え込んでいたものの影に隠れて、心の底に沈んでいた言葉たちが浮かび上がってくる……。

 原作は佐伯一麦による同名小説だが、震災後に書かれた他の作品からもエピソードが引用され、原作の短篇らしい読み味とは少し違った、ラブストーリーにとどまらない膨らみのある映画になっている。

 たとえば脇役である市役所の福祉課の職員、木村(諏訪太朗)の菩薩のような優しさと後ろ姿の格好良さは、この作品の真のヒーローと呼べるのではないだろうか。

 木村だけでなく杉谷の店には日夜、復興関連の仕事のために全国から働きに来ている作業員たちの姿がある。彼らは料理と酒を楽しみ、酔い、各地の訛りを丸出しにして語らい、故郷の歌をうたっている。

 こうした地方の小さな町は、もともと地縁や慣習を重んじる閉鎖的なコミュニティであったはずだが(由実の兄はそれを嫌って若いうちに上京している)、震災以降、外からの多くの人の助けを必要とし、一方では生まれ育った土地に別れを告げて出てゆく人が少なくない。この映画の背後には今の時代を反映した要素として、個人の記憶だけでなく、土地の記憶、故郷の喪失というもうひとつの物語が垣間見える。

 時代とともに町の風景は変わり、人も移ろう。そんななか、ふと見上げる夜空の月は太古の昔から変わらない、同じひとつの月である。そして、その月は手の届かないものであるが故に誰のものでもない。

 ある場面で、杉谷は山で倒れていた時に木々の隙間から見た月について語り、由実は避難所で見ていた月のことを思い返す。また別の場面では、二人で一緒に眺める月の姿がある。それぞれの時代に生き、夜空を見上げてきた無数の人々と同じように、月の光が届く「いま」「ここ」に彼らも立っている。時を忘れて見つめるほどに静かに澄み渡っていく冬の夜空は、たとえ迷い道であっても、その先には夜明けがあり、明日があることを教えてくれる。