「松本雄吉追悼特集」に寄せて
        安住恭子(演劇評論家)

 今年6月18日に松本雄吉さんが亡くなったと聞いたとき、私の心に真っ先に浮かんだのは、「ああ、これで維新派の舞台を永久に見ることができなくなった」という思いであった。癌で入院したと知ったときから覚悟はしていたが、その余りの早さに呆然とした。そしてそれは、私に限らず長年維新派を見続けた人達共通の、大きな大きな喪失感だった。「もう芝居を見たくなくなった」と語る友人もいた。

 それほどに、松本さんが作った維新派の舞台は凄かった。どこにもない、まさに世界で唯一の舞台だった。それを見るために、大阪の南港へ、瀬戸内海の犬島へ、奈良の室生村や曽爾村へ、琵琶湖畔へと、毎年旅をした。台風が相次ぐ秋口、不便極まりない野外で、1ヶ月や2ヶ月かけて劇場と作品作りをしていることを思い、今年はどんな驚きに出会えるかと期待した。そしてそれは一度も裏切られることがなかった。特にここ数年は、「松本さんは進化している」と思えた。齢60を過ぎて進化し続ける人を、私は他に知らない。

 維新派の凄さの第一は、もちろん野外劇のスペクタクル性にある。私にとっての維新派初体験は、1991年に東京・汐留で上演された『少年街』だった。白塗りの少年たちが、独特のリズムとラップで繰り広げるスタイルをスタートさせた作品だ。東京のビル群に囲まれた空き地に、同じようなビル群が次々と現れ、どんどん動き、変化し、廃墟となる。セットの壮大さだけでなく、すべてを人力で動かすという途方もなさに呆れた。野外劇は当たり前のようにスペクタクルになる。だがその野放図さが粗雑になることも多い。けれども維新派には破綻がなかった。大学で美術を学び、前衛美術家としてのパフォーマンスから演劇へと踏み込んだ松本さんの美意識が、すみずみまで貫かれていたからだ。

 中上健次の小説をもとにした『南風』(97年)では、家々が密集する新宮の路地がリアルにつくられた。そしてその家々が突然消えて、巨大な鯨が出てきたり、大きな蓮の花が咲き乱れたりした。維新派のスペクタクル性は、巨大さだけでなくその変化にあったと思う。不可能と思えることを、一見やすやすとやってのける。人智の限りをつくしたダイナミズム。その精神は新国立劇場など、屋内で上演したときにも貫かれた。『nocturne』(03年)は、40トンの回転スライド舞台を持ち込み、新国立劇場のそれまで使われたことのなかったあらゆる機能を使い倒して見せたのだ。そして、無数の立方体による『流星』(00年)あたりから、その美術はダイナミックでありながら、どんどんシンプルに整然としていった。それもまた松本さんの美意識の先鋭化のように思えた。

 けれども維新派の魅力は、その舞台美術の途方もなさだけではない。それを駆使した表現もまた、通常の演劇の枠を越えていた。90年代の作品は、路地裏や廃墟を駆けめぐる少年たちの冒険と、そこから浮かび上がる街や土地の歴史、時間の積み重ねといった内容だった。二十一世紀に入ると、その都市論や土地論に、漂流や移民の視点が加わるようになる。野外劇場に巨大なプールをつくった『水街』(99/00年)は、明治・大正時代の大阪を舞台に、産業革命を底辺で支えた人々が沖縄や九州から大阪に集まり、やがてブラジルへ渡っていく姿を描いた。もうもうと蒸気がたつ中での激しい労働などを端的に見せながら、それだけを語るのではなく、人々が海流と共に大阪に集まり、さらに遠く異国へと旅立っていくことを思わせた。

 そして時間の流れと水の流れに、さらに場所と空の流れの視点が加わる。人々は海も土地も渡り、鳥は空を渡る。二十世紀前半のアジアへの日本人移民を描く、『台湾の、灰色の牛が背伸びをしたとき』(10年)をはじめ、どの作品にもその重層的な視点が貫かれた。その視点で松本さんは、「命」というものを見つめたのだと思う。せりふは単語が連なるラップで、意味や思想を語ることは決してなかったが、広大な運動場に無数の靴が並んだ『トワイライト』(15年)のラストシーンのように、悠久の命の連なりを静かに提示した。少年たちはその精霊であった。山や海に夕陽が沈み、自然の夜の気配の中に精霊が浮遊する。それが、この地球に現れては消えた無数の命を思わせた。そして私も浮遊する一人なのだ、と。その舞台の片鱗に映像で再会できる。