特集 ロメールと女たち
 エリック・ロメールの感触
        大島真寿美(小説家)

 ヌーヴェル・ヴァーグの映画といえば、私にとってはトリュフォーで(ゴダールではなくトリュフォー)、トリュフォーの映画はずっと好きなのですが、その兄貴分であるエリック・ロメールをなぜか私はヌーヴェル・ヴァーグに属する映画監督とあまり意識していなくて、はじめ、そうとは知らずに観たからかもしれませんが、いまだにどうも、トリュフォーより年上だった、同時期に同じ場所で活躍していた、ということさえ、よく理解できておりません(トリュフォーの方がうんと早く亡くなってしまったしね)。理解できないといえば、トリュフォーの映画は、何年経っても、ずっと大好きではあるけれど、だいたい同じ位の好きさ加減であるのに対し、ロメールの方はじわじわじわじわ右肩上がりに好きになり、今や、トリュフォーを追い越す勢い、というのも、いったいこれはどうしたわけなのか。ロメールが長生きしたからか? いやいや、そういうことではない。観るたびに発見があるとか、新しい刺激を受けるとか、そういうんでもない。気持ちはいつも同じ。味わいも同じ。とにかく、ただひたすらロメールの映画は楽しい。いつ観ても、どれを観ても楽しい。この安定感。

 ロメールの映画を観ていると、映画を観る快楽を思い出します。ささやかながら輝ける一瞬を目撃する喜びに震えます。その時、そこには何が映っているのか? じつはそこにたいしたものは映っていない。あれっ? というくらい、何も映っていない。流れる時間の中にすうっと消えていってしまう。それなのに、そこにしっかりと輝きを観る。ひょっとしたら世界は、こんな輝きにいつも満ちているのかな? そんな気持ちにさえなってくるから本当に不思議だ。これはもう、映画ならではのマジックといっていいのではないか。時間そのものがそこにあるんだから。ロメールの映画はしゃべりまくっているから、言語も大事なのかと思われがちだが、そんなことはない。生きていたら、そりゃ、しゃべるよね、くらいに観ていても全然かまわないと思う。さまざまな恋模様がじゃんじゃん出てくるけれども、恋愛映画というジャンルにも到底嵌らない。生きてりゃ、そりゃ、恋もするよね、傷つきもするよね、喜びもするよね、そういう感じ。一番大枠にあるのは、全てを呑み込む、生きるということ。存在するということ。関係するということ。影響しあうということ。

 それを、少し突き放して、ロメールは映画を撮る。べたべたと生命賛歌のようには決して撮らない。といってクールでもない。多少、皮肉なまなざしを感じなくはないけれど、おおむね楽しげに撮る。お洒落な映画とも思われがちだけど、よく観ると、そうお洒落でもない。むしろ、普通の感じ。普通の感じなのに、なんだかいい。その加減の良さが観ていて心地よい。女の子たちも可愛すぎなくて、ちょっとへんてこで、ちょっと独特で、ようするにやや微妙、だったりする(とくに中身が)。でも彼女たちはあらためない。あらためられない。そのまま突き進む。悩んでいるくせに、困っているくせに、そのまま行く。勇猛果敢に突き進むのではなく、ただなんとなく、そのまま行っちゃうんだな。そこがおかしい。でも、それが女の子、なんだよね。世界中の女の子が頷いてしまうはず。つまりロメールは女の子の核を抽出しているのです。ロメール、すでにおじいさんだったのに。で、そういう女の子たちの成長物語、というんでもない。まあ、多少は成長してるのかもしれないけど、またきっとおんなじことを繰り返すんじゃないかな、という気もして(はらはら)、でもそこが大変良い、と私は思うわけです。これについてはロメールは明らかに意図してやっている、と思います。安易なドラマになど、決してするものか、と頑固に。一筋縄ではいかないんです、ロメールは。

 そういえば、『緑の光線』に出てくるジュール・ヴェルヌの小説『緑の光線』を読んだ時、これをモチーフにあれを撮るのか、とけっこう驚きました。ほとんど繋がりがないようで繋がっていて、ヒロインの心理はまったく別物でありながら、なるほど通底もしている。うまいんだか、そうでもないんだか、よくわからないけど、一番はっとさせられたのは、ロメールはこの小説をとても好きなんだろうな、という気持ちがなんとなく伝わってきたこと。すっとぼけた味わいの小説を読み終えた時、ロメールの映画の感触を思い出しました。そうだよ、ロメールの映画もすっとぼけているんだよ。素敵にしゃあしゃあとね。