体験なき共有と継承へのまなざし:
 山形国際ドキュメンタリー映画祭2015
       酒井健宏(スタッフ)

 毎年、秋の気配を感じる頃になると山形国際ドキュメンタリー映画祭(YIDFF)のことが心に浮かぶ。2年に一度の映画祭であるにもかかわらずである。その充実したプログラム、多様で豊かな上映作品たち、作品および制作者と観客とを結ぶべく奔走する映画祭スタッフの姿が、訪れるたびに強く脳裏に焼き付くからだと思う。

 昨秋、YIDFF2015に行った。ごく短い滞在だが4年ぶりの訪問、穏やかでどこか優しい雰囲気の山形市街に懐かしさをおぼえた。点在する映画祭会場をまわる際に垣間みるささやかな日常の一コマに、ふと目をとめるのも楽しい。あのお店はまだあるか、ここにコンビニができたのか、前に猫を見た小道をまた歩いてみようと、そんなことを考えながら目的の会場に向かう。

 映画祭プログラムを眺めるたびに、この数年間のドキュメンタリー映画を巡る状況の変化を痛感する。国内外の映画にまつわる状況とあわせ、数々の変化があるものの、やはり目立つのは上映機会のそれだろう。ドキュメンタリー映画が劇場公開される機会は、この数年のうちに著しく増えている。かつてはYIDFFで紹介された良作を、当館のようなミニシアターで上映できるのはいつ頃になるのかと想像することが多かった。そのような作品は現在も多々あるが、他方で、すでに大都市圏で公開されたり、待機している作品も少なくない。

 当館の上映でも好評をもってご覧いただいた『戦場ぬ止み』(三上智恵監督)や『THE COCKPIT』(三宅唱監督)など思い入れのある作品、またペドロ・コスタやパトリシオ・グスマンといった注目度の高い監督たちの作品が上映されるのを応援しながら、初めて出会う作品たちに向かう。

 話題性の高いインターナショナル・コンペティションから『銀の水──シリア・セルフポートレート』(オサーマ・モハンメド、ウィアーム・シマヴ・ベデルカーン監督)を見る。すでに5年にわたり戦争状態が続くシリア国内の凄惨な光景がとめどなく目に飛び込む。拷問、虐待、殺戮、破壊、爆撃、流血、死体。あらゆる暴力が「正義」と「生存」の名のもとに正当化される戦争の非道さを、フランスとシリアに身を置く2人の監督がインターネット上のやり取りを通して告発する。YouTubeにアップされる無数の残虐な記録、SNSを介して交信される悲嘆と絶望の声、小さなビデオカメラが捉える生々しい現実。デジタル技術の進展とネット社会の隆盛がこの作品の成立を可能にしたと言える一方で、ずっと以前から私たちが抱えてきたものに似た、答えの見えない痛切な自問自答も同時に呼び起こされる。それは、この作品が『二十四時間の情事』(アラン・レネ監督)を強く意識して構成されているためでもある。私(たち)がヒロシマとナガサキを体験できぬまま共有せざるをえないように、今こうして眼前にあるはずのシリアの人々の悲惨な境遇に対しても、結局のところ私は、まだ何も見ていないのではないか。知ったつもりでいるだけなのではないか。

 山形と映画のかかわりを特集する企画「やまがたと映画」では、集められた多彩な作品の中から、山形放送が過去に制作したドキュメンタリー番組『ある戦犯の謝罪 〜土屋元憲兵少尉と中国〜』『略奪 〜ある伍長のえん罪〜』『あなた また戦争ですよ 〜残された妻たちの手記〜』の3作を見ることができた。いずれも日中戦争と太平洋戦争を体験した当事者に取材し、同行しながら証言をとることで構成された番組だ。みずからの行いを悔やみ、不条理に対し怒り、失われた命を思いやる彼ら彼女らの、溢れ出る嗚咽と涙、打ち震える唇と拳、そして深い悲しみを押し込んだ証拠としてあらわれる穏やかな笑顔には、戦時を体験した者たちだからこその真実味が宿っていた。

 「戦後70年」や「安全保障関連法」などの言葉が飛び交った昨年は、戦争の悲惨さを体験しえぬまま継承せねばならぬことの困難に、たびたび思いを巡らせざるをえなかった。それはこれからも変わらない。見ていないことを語るという、体験なき共有と継承は、フィクションの力に頼りたくなる誘惑につねにさらされることでもある。

 滞在中に見ることができたのはわずか12作品だけだが、いずれもがその誘惑に立ち止まる姿勢を貫くものだったことが印象に残った。そのようなドキュメンタリー映画のせっかくの上映機会の増加を、社会的マジョリティや為政者が好む強弁で聞こえのいいファンタジーに易々と明け渡してしまわぬこともまた、当館のような、小さな映画を運び上映する側に託された責務であると思う。