『白河夜船』を観て
  鈴木 創(シマウマ書房)

 朝方に見た夢を、目覚めてからだれかに伝えるのは難しい。内容の説明はできても、夢に包まれていた時間の心地良さ、あるいは恐怖、淋しさといった感覚はこぼれ落ちてしまうからだ。眠りというテーマが大きな位置を占める映画『白河夜船』は、そのこぼれ落ちそうな感覚を掬い上げるような手つきで、幻と現実のあわいに揺れる男女の恋や不安を描いている。

 仕事を辞めて、自分の部屋でただ眠り続けながら、不倫関係にある恋人・岩永からの電話を待つ日々を送る寺子。昼と夜の区別さえ曖昧になり、昼の光景のなかに夢のような幻が入り込んでくることもある。岩永との関係についても「私たちの恋は現実ではない」という意識が常につきまとう。

 主人公がほぼ一日中ベッドで寝ているのだから室内のシーンが多いのは当然だが、写真家として知られる若木信吾監督の映像が美しい。外からの光のまぶしい明るさと、部屋の物影の間に青白いグラデーションが揺れていて、白いシーツや布団のしわ、薄いカーテン、寺子の肌着や裸の素肌などにきめ細かな質感と陰影を映し出す。映像自体が囁きかけるように、小さな物音までよく耳に届くのは、この映画には(エンディングを例外として)演出としての音楽が流れることがないからだ。

 時折、ため息のような寺子の呟きが聞こえてくる。この作品における人の声は、彼女のモノローグか、二人だけの会話がほとんどで、いずれも半径1m以内で発せられた(あるいは発せられなかった)言葉たちである。声というのは空気の振動であり、目的の距離まで届けばすぐに消えていくものだが、寺子の声はその覚束なさのゆえに、微弱な振動のまま留まり続けているかのようだ。たった今、口にした言葉でさえ過去からの声のように響く。

 そんな彼女のモノローグがさまざまな情景を呼び起こしながら、映画は展開する。そこで映し出される場面は、自殺した親友のしおりの姿がたびたび現れることからもわかるように、過去の回想も、現在の出来事も、さらには夢のなかの出来事もほとんど区別がない。観ている私たちも、いつしか流されるままに白昼夢のような世界観を漂うことになる。

 「しおりといると、人生の重みがずっしり来る時に、それが半分になるの……」。
かつて一緒に暮らしたこともあり、何でも話せる親友だったしおり。彼女は客と添い寝をするという奇妙な仕事をしていたが、睡眠薬により眠りの底から帰ることなく死んでしまった。寺子はしおりの不在を深く悲しみながらも、さまざまに圧しかかってくる重みに対して、眠りだけが自分の味方であると考えていて、自らも覚めない眠りを望むことさえある。

 不倫というものも、相手との共犯関係によって維持されるものだが、岩永に対しては、淋しさを抱えた者同士が寄り添うような恋愛であり、その関係を守りたいと思うがゆえに、お互いの実情を共有することはない。結局いつも同じ、堂々めぐりの恋愛であることを寺子は自覚していて、だからこそ二人でいる時もどこか淋しい。

 その意味では、彼女が人生の重みと共に向き合っている相手は、むしろ岩永の言葉の向こう側にしか姿の見えない、彼の妻なのかもしれない。植物人間の状態で入院しているという(本当だろうか?)妻にまつわる全てのシーンは、寺子の脳裏をよぎるイメージなのか、現実なのか、彼女をとりまく他の情景と同じように区別がない。何もかもが判然としない以上、それらすべてに背を向けるか、すべてを受け入れるかのどちらかだが、結局寺子はこの妻との(幻の)対話のなかで、後者に立つことを選んだのだろう。映画の終盤はそんな変化の予感を兆している。

 原作は26年前に発表された、よしもとばななの初期小説。今回の映画化は原作にかなり忠実な構成といえるが、一見さらっと綴られているような場面が、映像になってみると、なるほどそういうことだったかと、小説のなかで企てられたイメージの意味を再認識させられることが少なくなかった。たとえば海辺で寺子が岩永の右手を両手で包み込むシーン(彼は自分の左手をポケットから出さない)や、中華料理店の家族向けの円卓で二人が食事をするシーンなどは、状況設定のなかに二人の微妙な内面が滲んでいて印象的だった。

 一方、寺子を演じる安藤サクラの表情や動きには彼女ならではのどこかノイズ的な要素が含まれていて、それがとてもチャーミングにみえる。暗く沈んでいるようでありながら不思議な浮遊感をまとった寺子のキャラクターは、原作のイメージに新たに添えられた大きな魅力だと感じた。