「ウンザ! ウンザ! クストリッツァ!
    バルカンの音に耳をすませて」
          清水美穂(ボスニア伴走者)

 エミール・クストリッツァ(1954年生まれ)は、若くしてバルカン映画界の巨匠となった。今回の特集では、1988年から2001年までに制作された五つの作品が上映される。

 1981年、クストリッツァは初長編映画『ドリーベルを覚えている?』でヴェネツィア映画祭の新人賞を獲得、その舞台ともなった故郷サラエヴォに凱旋した。当時上映された街の古びた映画館が、異様なほどの興奮に包まれていたのを、昨日のことのように思いだす。そう、あの頃のサラエヴォは、ゴラン・ブレゴヴィチ(『ジプシーのとき』『アリゾナドリーム』『アンダーグラウンド』の音楽担当)率いる「ビェロ・ドゥグメ(白いボタン)」と、ネレ・カライリッチ(『黒猫・白猫』『Super8』の音楽担当)率いる「ザブラニェノ・プシェニェ(ノー・スモーキング・オーケストラ)」という二つのロックグループが騒々しい音楽をまき散らしていた。後に日本で音楽活動することになるヤドランカもその斬新な表現スタイルで絶対的な人気を誇っていた。この三者に共通していたのは、いかにも多文化共存のボスニアが生んだ、ミクスチャーサウンドの面白さだった。楽器、旋律、そして土地や民族に根付いた独特のリズムは、たとえ政治体制が変わろうとも、人々の心を離れることはない。80年代を通してクストリッツァの映像に独特の味付けを施したのは、まさにこれらの音だったといえるだろう。

 さて、彼の渾身の最高傑作が『アンダーグラウンド』であることに、疑いの余地はないだろう。この作品は、彼の才能だけでなく、ユーゴスラヴィアという国の数奇な歴史という背景があって、はじめて可能となった類稀な映画である。ご存じのように多民族多宗教多言語の社会主義連邦国家であったユーゴスラヴィアは、1990年代に大きな犠牲とともに崩壊した。『アンダーグラウンド』は1992年春に始まったボスニア紛争のさなかに制作され、戦争終結前の1995年5月のカンヌでパルムドール大賞を受賞した。この時、彼は内外のジャーナリストや識者に向かって、挑発的ともいえるような内容の発言を繰り返している。いわく、「民主主義は世界中のどこにも機能するようなシステムではない」いわく、「ヨーロッパ統合のご時世に小国を分裂させるのは非論理的だ」いわく、「チトーの葬儀場面を実写で挿入したのは、あそこに集まった強国のお偉方こそが、現在のボスニアの悲劇をもたらした張本人だということを表現したかった」etc。

 故国が音を立てて崩れゆくのを、彼はアメリカで知り、故郷が戦闘に明け暮れる様に心引き裂かれる思いで、『アンダーグラウンド』制作を決意したという。彼自身、完成後のインタヴューで「この映画は私のベストアルバムなのだ。これまでの私の人生と映画生活の総まとめといってよいだろう。こんな大作はもう二度と手がけることはできないだろう」と語っている。

 晩年の淀川長治は、クストリッツァが持つ映画美術への底知れぬ「あこがれ」に、心からほれ込んでいた。『ジプシーのとき』と、『アリゾナドリーム』を観て、『アンダーグラウンド』をご覧になると、いくつもの共通点がみつかるだろう。クストリッツァは、自分の好きな古い映画のあの部分、この場面を再現するのが大好きだ。ルビッチやルノワール、タルコフスキーやフェリーニなど、お気に入りの監督のまねだけではない。自分自身の別の映画の一部をコピーして遊ぶのが楽しいと語っていた。たとえば「許すことはできる。でも決して忘れないぞ」という意味深長なセリフ。さあ、どことどこに出てくるかな?

 さて、『黒猫・白猫』は、ウンザ・ウンザ音楽をバックに軽快なドタバタ喜劇仕立てになっている。かつて、「いつもコメディを作りたいのに、バルカンのメンタリティが邪魔をする」と言っていた監督が、いつの間にかその悩みを克服したかのように見える。唯一無二の大作を完成させたことで、すっかり肩の力が抜けたような作品だ。

 また『Super 8』に描かれるバンドドキュメンタリーは、それぞれのメンバーの音と声を追いながらその背景としての社会を浮き上がらせ、監督の少年時代から20世紀末に至るまでの様々な実写を織り込むことで、風刺に満ちた優れた現代史となっている。故国崩壊後、欧米で繰り広げるライヴステージに、たくさんの旧ユーゴ出身者が押しかける。ばか騒ぎに終始するウンザ・ウンザは、やはり国や大切な友達を失った悲しみや切なさにあふれているように思われる。