『天使の楽園』LATE ROAD SHOW


●天使の楽園
 ゲイ・ポルノ映画ながら、海外の映画祭やアートフェスティバルで評価を高めた『Looking for Angel』の凱旋上映。本作が初長編劇場用作品となる鈴木章浩は、大木裕之、イアン・ケルコフ、ブルース・ラ・ブルースの製作キャリアを持つオルタナティブ・フィルム界の顔役だ。『猫耳』の黒澤潤が撮影を担当し、16o、8o、DV他様々な素材を交錯させ、ジェンダーの狭に揺れる人物をショッキングな陰影で彩り、ロケーション撮影では解放的な空間スケールを築きあげた。藤島晃一、宍戸幸司(割礼)らによるサウンドが、ざわめく映像と向かいうつ。物語は、四国出身のタカチ(今泉浩一)の死からゆるやかに過去へと走り出す。東京で独り暮らす玲子(葉月螢)の部屋に居つき、突然消えたソラオ(黒岩アキラ)、玲子の現在の友人シンペイ(末広あきら)達がタカチと共有した「天使」の時間を鮮やかに紡ぐ。

監督 鈴木章浩
脚本 タカトシコ、鈴木章浩、黒澤潤
出演 今泉浩一、末広あきら、黒岩アキラ、葉月螢、大木裕之 ほか
撮影 黒澤潤
録音 鈴木昭彦、吉松亮子
音楽 KUJUN、大木裕之、藤島晃一
1999年 61分


「天使の楽園」/"映画"と"セクシャリティ"
鈴木章浩
 映画を作るとは一体どういうことなんだろう?
 何が映画と呼ばれるものなのだろう?
 初めての劇場用映画を公開することになって色々な人々からインタビューを受けながら、僕が今だに考えているのはやはりそんなことだ。「あなたにとって“映画”とはなんですか?」と質問されるたびに僕は考え込んでしまう。この"映画"は一体どんな“映画”なんだろうか?
 この映画は何を言っているのだろう?
 …それは僕が、この映画を作っている最中からずっと考え続けていたことだった。これは果たして“映画”なのだろうか?
 これが何故"映画"ではないのか?
 映画になる、というのはどういうことなのか?
 僕はその自問を繰り返しながら、映画を作るというプロセスを踏み、映画のために集められた様々な要素を自分にとっての“映画”のリアリティに近づけるように少しずつ組み立てていった。そんなことを繰り返しながら紡ぎ出された映画は、次第に僕自身に近づいてきたような気がする。確かにこの"映画"は僕に似ている。でも、僕に似ているこの“映画”は、果たして“映画”と呼ばれるものなのだろうか?
 “映画”と認めてもらえるものなのだろうか?
 例えば今までの文章の“映画“を“セクシャリティ”と言い換えてもいい。『天使の楽園』は当然のことながら、“セクシャリティ”についての映画なのだ。だから、“映画”を全て“セクシャリティ”に変換して繰り返しても大体同じことになる。なぜなら、“映画”も“セクシャリティ”も、どうしようもなく僕自身を反映しているもので、結局のところ僕は僕自身の中の“映画”や“セクシャリティ”というものが導き出した何物かに沿って僕にとっての“映画”や“セクシャリティ”を形にしていこうとしただけなのだ。で、世間はそれに対してどう思っているかが本当に気になる…。と、いうか、それ以前に、世間は“映画”や“セクシャリティ”を問題にすること、或いは今あるその価値基準に対して疑問を差し挟むことに関心があるのかどうかが、今、とても不安なのだ。
 僕が“映画”を意識し始めた中学生の頃、それは、'70年代の中期で、ちょうど深夜テレビの映画劇場で'60年代終わりから'70年代初期の作品がたくさん流れていた時代だった。ゴダールが政治的左翼作家としてすっかり疎外され忘れ去られていた時代で、僕は深夜映画で奇妙なスパイ映画としての『メイドインU.S.A.』(しかも大幅短縮、日本語吹き替え版である)や掟破りなSFとしての『アルファビル』に出会った。ゴダールが何者かは知らなかったが、地元の企業のコマーシャルに分断されたそれらの映画の断片は僕を釘付けにした。それ以前に僕は、コマーシャルで全く分断されることなく、一つの状況が延々と放映されているのをずっと眺めていた。それは、連合赤軍と警察の浅間山荘での攻防戦で、学校から帰った僕は、何も起こらないその映像を飽きることなく眺めていたのだった。恣意的にコラージュされる断片と何も起こらず持続し続ける時間、それは、普段観ている映画やテレビの文法とは全く違った時間を僕に与えてくれた。僕は自分の見ている“それ”が何なのかは判らなかったが、“それ”が何かを壊していることに惹き付けられていた。そして、それは同時に「11PM」や「独占おとなの時間」といったエロティックなバラエティや「プレイガール」や「傷だらけの天使」という大人向けのドラマをこっそり見ていた“セクシャリティ”の時間とも重なっていた。ちなみにその頃は、NHK名古屋が誇る「中学生日記」も毎週のように傑作、問題作を連発し、僕の目を釘付けにしていたのだ。ふとした時に予想もしなかった映像に出会い、そこから生まれる感情。それが僕にとっての映画の面白さの原点だった。深夜には、性的なラジカリズムと政治的なラジカリズムが渾然一体となっていて、僕はそこから、セクシュアリティとスタイルそして思想が、既製の枠からはみ出ようとする瞬間の美しさを学んだのだった。それは、映画が映画でなくなるかも知れない時点での美しさ、枠を壊すことの美しさだった。
 『天使の楽園』はそうした自分の原点に忠実に作られた映画だ。僕は映画のことを何も知らなかった頃のように、この映画を作りたかった。僕は、自分自身の“映画”と“セクシャリティ”を発見していくようにこの映画を編集していった。それが他人にはどう見えるのか、本当の所まだ良く判らない。だから、もし、あなたがこの映画を観たなら、どんな風に見えるのかぜひ教えて欲しいと思う。それはまさに、僕のこと君にはどう見えるのか? ということなのだから。 (映画監督)