「人の根本にある新しい世界への近道」 三輪 麻由子 私は、映画とは、「世界」ではないかと思う。「世界」。人にとって「新しい世界」ほど怖くて楽しいものはないのではないだろうか。不安と恐怖と期待と好奇心とが同時に膨らみ、どうしようもない欲望が湧くこともあるだろう。 しかし、そういった「世界」を感じること、発見すること、それは辛いことだろう。それは有益であるが故に、面倒なことである。新しい「自分」や「世界」は、とても面倒である。頭の中を駆け巡る、新しい体験に、多少なりとも私たちは何かを感じる。感じるということは、とても面倒なことだ。とても辛いことだ。 映画を見て、席を立てなくなった事があるだろうか。そんな馬鹿正直に何かを痛感するほど、力のある映画に出逢った事があるだろうか。わたしはある。塩田明彦の映画を初めて見たとき、感動した、というよりもそれは衝撃だった。初めてと言ってもいい、世界がくにゃりと曲がるくらい、映画がわたしの中を貫通したのは。 塩田明彦の映画を見ていると、不思議な気分になってくる。自分の感覚が無くなっている気がしてくるのだ。自分が、ここに、いる、ということをふわりと忘れる。密やかな嵐のようなものに吸い込まれる。戻ってこられない気がするのだ。「こわい」しかし、それはとても心地がいいものだった。 そういったものがもたらすものが何にせよ、新しく生み出されるものが何にせよ、私たちは「体験」に酔いしれる。映画と真剣に向き合うならば、それは一種の体験と同じではないだろうか。映画と共に旅し、感じる、そんなふとした瞬間を楽しむことで、そんな世界に魅せられることで、ただの日常生活は美しく平凡に続いているのではないだろうか、と私自身は思う。 映画とは、観客と喧嘩することだ とある映画監督が言ったとか言わないとか。少なくとも、塩田明彦は仕掛けてくる。巧妙に、とってもいやらしいやり方で、仕掛けようとしてくる。なんというか、喧嘩よりももっとたちが悪いやり方で仕掛けようとしてくる。気付かないフリして、どんどん観客を負かす、いや、負けて勝ち取るような、心地よいいやらしさがある。いやらしい。この言葉、今思いついたのだが、これこそ塩田明彦を形容するによいイントネーションを含んだ言葉であるような気がする。 そうだ。塩田明彦は、とても優しくいやらしい。肯定しながら、否定しつづけ、否定しながら、肯定し続ける。瞬時に、目の前にあるものを当然のように投げ捨て去り、モンスターのように膨れ上がった自分に自分の身を任せる。その根元には、人間性などなく、ただ「欲望」だけが渦巻き、自分に正直に生きる、強く賢い人間の姿が映し出されるだけだ。 「今、何がしたいのか」それだけ問うて生きることは大変だ。「今、何がしたいのか」と考えるより前に、「何故それができないのか」を考えるほうが先なのが、きっと、生きることであるに違いない。しかし、そんなものはどうでもいいのだ。答えなど出ない。出ていたところで、それを切り捨てることも、身につけることもできない。ただ、自分の根元にあるものは、「欲望」。 塩田明彦という世界は、それを気付かせるのである。塩田明彦という体験によって、自分は「自分」を生み出してしまうのである。 「自分」を生み出す。その、新しい「自分」はこの世界にとっても、自分にとっても有益ではないかもしれない。しかし、私たちはそんなことお構いなしに「自分」を作り続けるのである。自分の強さに気づきさえすれば、人はみなどこまでもいける。塩田明彦監督の映画を見ていると、そんな気になってくる。自分とはまったく関係なく進んでいく世界。自分というピースは、無くなったってかまやしない。だったらば、無くしたつもりで進んでやればいいのだ。 今回の「塩田明彦特集」では、そんな強い力を持った映画の百鬼夜行です。11月29日には、監督も来場予定となっております。ぜひ、お越しください。(チル・アウト代表) |
|
解説ページに戻る