キッズ・リターン評論1北野 武・微論/北村想
北野 武・微論
北村 想
北野武監督は吉本(隆明)さんからビートたけしとしての芸について批評されたときに「批評は楽なんだよ、作んなくていいんだから、おいらたちは作ってんだからな。何かいうなら、てめえも作ってみろってんだ」てなふうに毒づいたことがあるが(引用のママに書かれていたわけではありません。こんなふうなニュアンスです。その上、このコトバの出典が明らかに出来ないのは、立ち読みで済ました私の責任です。そんなコトバを引き合いに出しまして、もうしわけございません)これは、たしかに私たちのように創作表現の現場にいる者としては、誰しもが批評というものに感じる憤りだと思う。思うけれども、これをいうのは、ヤバイのではないかとも思っている。
これをいってしまうと、すぐれた批評も創作現場を持たない(あるいは創作に関わる者ではない)というだけの理由で、その価値を失墜させることになるし、逆にくだらない、ツマラナイ批評であっても、彼が創作現場を持つか創作者であるかという理由だけで、拝聴の価値ありということになってしまうからだ。批評営為が反射的な(ベクトルの向きが反対の)表現であることを、私たちは知らねばならないし、そう認識することによって、さらに逆に、その批評行為に対する表現を、こっちから突きつけることが出来るのだ。
画家はキャンバスに向かって絵を描くときに、その絵がどこに展示されて、どんなギャラリーの眼に触れるのかなどとは、まず考えない。(そういう画家もいるかも知れないけど)つまり、観客を想定しなくとも、絵と作者の間で表現を成立させることが出来る。ところが、映画演劇はそういうわけにはいかない。この表現が他のそれと大きくちがっているところは、〔観客〕がいなければ、表現そのものが成立しないということだ。
北野武監督は、漫才という舞台から出てきたひとだから、観客というシロモノに対する体験が、ふつうの映画監督に比してすこぶる実感的だという気がする。つまり、ライブにおけるリアルタイムな観客というものが、彼の念頭にある。だから、最初の一歩の踏み出し方が、ちがうのである。〔場〕を違えての映画表現でありながら、彼には彼の表現の成立条件であるところの〔観客〕というやつが、鬱陶しくてしかななかったにちがいない。
さて、こいつらをどうするか。ということで、手っ取り早い方法は〔殺して〕しまえばいいと彼は妄想する。北野武監督がデビュー作『その男、凶暴につき』で殺してまわったのは観客で、その暴力性は距離をはずさず観客の心臓にとどくように計算されている。さらに次の『3−4×10月』において、観客破壊は、ほとんど完全に終了する。よって、次の作品『あの夏、いちばん静かな海。』では葬送の美しいメロディーが奏でられるという寸法だ。
さて、これで一応鬱陶しいものはかたづいた。そこで『ソナチネ』である。ところが、ここにおいて、彼はほんとうに鬱陶しい存在が実は観客ではなかったのだと、思い当たる。何故なら、邪魔者がいなくなって、軽く踏み出せるはずの表現が、思いの他そうはいかないからだ。「なんだ、邪魔で鬱陶しいのは、おいら自身か」
『ソナチネ』はそのタイトルのごとく、これまで提示されたもの、展開されたもの、それを再現したものとして小ソナタ形式を意図したのだと思うのだが(この推測は打率2割5分)つまり集大成でなく集小成である。それが裏目に出たのか、これまでの映画のツギハギのような感じを与えてしまった。あるいは、北野武監督の鬱陶しい集燥が漂ってくるのが露骨のようで、私はこれを評価できない。
『ソナチネ』のラスト・シーンは、北野武自身の論理的帰結である。「だったら、俺を殺しちゃうか」である。で、北野武は死んだのである。が、『ソナチネ』の評判は海外で芸術映画として悪くない。そこで、北野武監督の虫が目を醒ます。「ゲイジュツだってか。おい、おいらはこんなくだらないことやってんだ」と『みんな〜やってるか!』を撮って『ソナチネ』と同じロンドン映画祭に出品してしまう。
たぶん、それで、せいせいしたことだろう。観客も殺したし、自分も死んだ。くだらない映画も世間にやってみせた。これで、チャラ。で、黙って〔映画〕を撮ればいい。で、『キッズ・リターン』だ。タイトルの意味は、ここまでの説明でハッキリしているはずだ。おそらくこの映画の評価が、北野武監督の今後の創作活動を左右するに違いないのだ。(劇作家)