キッズ・リターン評論2『キッズ・リターン』を観て−残酷でやさしい眼差し−篠崎誠
『キッズ・リターン』を観て − 残酷でやさしい眼差し −
篠崎 誠
数多くの忘れがたい映画を残した映画監督フランソワ・トリュフォーは、ジャック・ロジェが監督した瑞々しい青春映画の傑作『アデュー・フィリピーヌ』をめぐって、かつて次のように記した。
「15歳から20歳の若者たちを最も自然にいきいきとキャメラにとらえるためには、そこから10年以上の年齢の差があってはならない。かと言って、同じ年齢のまっただなかにいても真の青春の姿は見えないのであり、レーモン・クノーの小説のように語り口の的確さが目的そのものになるという、そのバランスを失わずに距離を置いて〈青春〉をとらえることのできるギリギリの年齢がいわば10年なのであり、ヌーヴェル・ヴァーグはまさにその10年というギリギリの年齢的距離から〈青春)をとらえるためにこそ生まれてきたのである」(『わが人生わが映画』山田宏一、蓮實重彦訳)
しかし、それから30数年後の日本に、このトリュフォーの言葉を覆すかのような、49歳の監督による繊細な〈青春映画〉が現れた。北野武監督待望の新作『キッズ・リターン』がそれである。
映画は2人の高校生を主人公に、彼らのそれぞれの人生と、同様に彼らを取り巻く人々が辿っていくことになる人生のある時間とを描いていく。主人公の2人はふとした弾みで、それぞれプロ・ボクサーのチャンピオンとヤクザの親分になることを夢みはじめ、かわり映えのしない学生生活に自ら終止符をうつ…。だが、映画に捉えられるのは「青春の汗と涙」といった紋切型に到底納まりきらないほど、一途で不器用な、だらしないけれども切実な主人公たちの生き様だ。しかも彼らを見つめる監督の眼差しには、主人公たちと10歳以上も実年齢が離れた監督たちがつくる映画にありがちな、作り手が自分の青春時代を甘く美化して主人公たちのそれに重ね合わせるといった、薄気味の悪い視線は全く感じられない。何よりこの映画は〈若さ〉というものを何事にもかえがたい宝物のようには描いていないのだ。そのためは登場人物の誰もが若さに関係なく、それぞれが選んだ道に応じたリスクを情け容赦なく背負わされていく。
そんな登場人物たちを見つめる監督の視線は、あえて言うなら映画の冒頭で、若い2人組の漫才師の舞台を袖から静かに見守っているマネージャーの眼差しに近いものなのかも知れない。自分も舞台の上に乗って彼らと同じようにハシャグのではなく、かと言って、ひたすれ冷徹に観察をきめこむのでもなく、登場人物たちと作り手である自分との距離を自覚しながら同じ時間を共有し、なおかつ見守り続けることしかしない(出来ない)、残酷でやさしい眼差し。その眼差しに晒されながら、登場人物たちはスクリーンの上を必死に右往左往する。自分の心の弱さを十分にまだ引き受けるすべを知らず、その幼さを力で補おうとしてボクサーからヤクザへと流転し、身も心もボロボロに傷ついてしまうマサル。目の前にマサルがいないと世界にたった一人取り残された孤児のように寂しげな表情を浮かべることしかできず、ボクシングに出会うことで初めて自分に真っすぐ向かい合い、自分の無力さと本当の孤独を受け入れることになるシンジ。
彼らだけでなく脇の登場人物たちも、適度に映画を彩るパーツとしてではなく、リアルにスクリーンの上で呼吸している。人の良さが仇となり、高校を出てからもハズレくじを引き続けたあげく映画からひっそりと退場していく青年。夫の死後、煙草を吸うことで静かに彼の不在を引き受けようとする喫茶店の娘。泣きながら兄貴分のマサルを殴るチンピラ。いつのまにか成功した漫才コンビのマネージャーとして彼らの舞台を袖からみている不良3人組の1人。演技のうまいヘタでなく、彼らの佇まいや眼差し、声が、いつまでも心に残る。同じように取り立ててドラマティックなわけではないような場面がいくつもの記憶の中で泡立ち続ける。
シンジが初めての試合で勝利をおさめた後に、誰もいない更衣室で着替えの服に袖を通しながら思わず浮かべる上気した微笑み。夜の商店街を2人乗りの自転車が頼りなげに走っていくのを上から捉えた映像に、「俺、また別の何か探すわ…」というマサルの呟きが重なる瞬間の、静かな、絶対的な孤独の匂い。
こうした瞬間を冷静に分析することなど、たった4回この映画を観たにすぎない自分にできるはずはない。ただひとつ言えるのは、この映画が発する切実さが決して、映画としての完成度や技法に納まるものではないということだ。私自身、これからも何度もこの映画と、あらたな気持ちで出会うため、映画館に通おうと思う。(映画監督)