キッズ・リターン評論3絶対の境界線/断絶の映画『キッズ・リターン』(北野武)大口 和久    

絶対の境界線/断絶の映画『キッズ・リターン』(北野武)

 大口 和久

   


 方法論は既知のものだった。いかにも北野武らしいショットの運び、シーン作り、音楽、役者の雰囲気に至るまで同じ。物語も全く覚えがないストーリーというわけではない。既知の方法論で語られた聞いた覚えが無くはない物語。それなのにである。
 それなのにこの映画が発散する人間誰をも断絶させ絶対の境界線をその人と人の間に引いてしまう特権化されない孤独とでもいうか絶対の断絶ぶりは一体何なのだろう。
 これは今までの北野武の作品にはとても存在しなかった痛切かつあまりにも絶対的な断絶ではないだろうか。『キッズ・リターン』は『ソナチネ』が持っていた死への夢想がまるで人間らしい苦悩でしかないように見えてしまうほどの痛切さを感じさせる。
 たとえば『その男、凶暴につき』にはたけし扮するアズマとキヨヒロ、その妹、後輩の芦川誠、汚職刑事の平泉征との間にそれぞれ同じ頽廃を持つ者の不安が描かれ、『キッズ・リターン』とは正反対の同じ人間が同じ愚かさで繋がっていきながら皆自滅していくというのが描かれていた。
 『3−4X 10月』でもまるで白痴的なユーレイと同じ草野球仲間のタカやダンカンといった一見まるで違う人間がヤクザとの喧嘩を機に連帯し、それは遠く沖縄まで及び、まずきっと死ぬまで出会う事の無かったはずのたけしらヤクザとの奇妙な出会い、連帯といった事態を招いてしまっていたし『あの夏、いちばん静かな海。』こそは聴覚を奪った主人公を設定しながらそうした障害者が所謂健常者と温かい交流を自然に行っていき、連帯どころか「愛は地球を救う」的な人間の交流が主題化さえしていた。
 『ソナチネ』にしたって寺島進と勝村政信との言葉とは裏腹な友情や殴りこみをかけるたけしに「帰りはガソリン自分の金で入れておいて下さいよ」と言える勝村の信頼や、渡辺哲が海沿いの小屋に缶ずめにされながら惚れているホステスへのプレゼントは忘れないとかいった人間同志の繋がりが殺伐とした状況の中に存在していたではないか。しかしこの『キッズ・リターン』は登場する人間同志の間に決定的な境界線が引かれ続けていて、断絶し続けるしかない事ばかりが描かれてしまう。
 森本レオの担任はふたりをただのどうしようもない異物としか最後まで思っていないし、職員室の教師たちは「あぶない刑事」の同僚たちが同じ問題児のタカ&ユージに抱いている愛情を一滴もこのマサル&シンジに持っていない。それまで従っていた3人の不良もマサルがいなくなるとすぐに下克上に出るし、石橋凌の死は組長のゴルフ以下の価値しかなく、石橋が死ねば寺島進の子分はすぐに生意気なマサルを抹殺せねばならない。ボクサーたちも女との交流が自分の首を締めるし、シンジもハヤシとの交流がボクサー生命を終わらせてしまう。山谷初男の会長も単なる嫉妬で女と遊んでいた為負けたハヤブサを殴っているようだった。あのシンジとマサルが再会し口では喜びながらも結局マサルは正面から向き合わずにいたように、ここではいつもの愚かさによって繋がっていく連帯が断絶に変わっているのだ。あの子分思いの石橋凌があまりにも自動的に可愛がっていた子分の人生を決定してしまう強烈な断絶には言葉がない。喫茶店に通って女と所帯まで持った気の弱いヒロシも女房の為に無理して死んでしまう。いつもの殺伐とした状況の中での真の連帯とは真逆なこうした共同体の中の絶対の断絶がドラマが進むにつれどんどん拡大していってしまうのだ。
 ラスト人生のリターンマッチを誓うふたり。しかしこのシーンが感動的なのはふたりがまた断絶目指してリターンマッチを試みるように見えてしまうからだ。
 他の連中も皆未決定な状況に放りこまれている。ボクサーとして格を上げた不良の一人はハヤブサのように女でダメになる可能性を喜びの描写で描かれる。漫才師として売れてきたふたりもいつマサルとシンジのようになるやも知れぬ。この映画自体がこのふたりを楽屋から眺める傍観者で地味な不良のひとりの姿からはじまったのはとても象徴的である気がする。ただ微笑みを浮かべてそれが途轍もなく残酷で断絶した笑みである事を知らない微笑。あの微笑と北京ゲンジたちの間には絶対的な境界線が引かれている。その断絶の寂しさを踏まえた上でそれでもそれぞれが生きていくという事だろう。その意味でこの映画は技法上の類似を越えてあまりにも小津的な主題に隣接した北野武の、作家としてのベクトルの変更を示す作品ではないか。華やかな中で死を夢想しながらも連帯を描いてきた男が生きる事を希求すると断絶しかない。そこに今のたけしが居るような気がするのだが。