勝手にしやがれ評論 勝手にしやがれ−何でもありの世界−黒沢清
勝手にしやがれ −何でもありの世界−
黒沢 清
『勝手にしやがれ!』シリーズが6作も続いた理由のひとつに、「俺たち何でこんなことやらなきゃならないの?」「知るかヨ」という主役二人のやりとりがある。実際、この会話の発見は強力だった。これを理屈で言えば“二人はなぜそれをするのか?”“知らない”ということであり、いきなりそこに何でもOKの世界が出現する。
オーストラリアに行くというネタも、町のやくざを追い出すネタも、すべてこれで切り抜けた。いちばんヒヤヒヤものだったのは3作目『黄金計画』の宝探しの話だ。今どきいくら何でもそれはないんじゃないかと危惧する声もあったのだが、私は押し切り、「俺たち何で宝探しなんかしなきゃいけないの?」「知るかヨ」でいいと覚悟を決めた。結果がどうだったかは私にはわからないが、こういうことにチャレンジできただけでもこのシリーズを撮った意味があると思っている。そしてそれを可能にしたのは、哀川翔、前田耕陽という二人の希有な俳優と出会えたことによるところが大きい。
彼らは最初から、人は映画の中に人間の行動を見るのであって、決してその心理や物語の辻褄を見るのではない、と直観的に知っていた。元々音楽系だというところに何か理由が隠されているのかもしれないが、彼らの映画センスが驚くほど先鋭的であるのは間違いない。それと、二人ともきわめて温厚な紳士であるという点も重要だ。撮影の厳しいスケジュールで危なっかしい実験をやろうとする時、二人の温厚さに救われたことが何度もあった。
ただ、シリーズ物のつらさもなくはなかった。主人公たちが死んではいけない、主人公たちが人を殺してはいけない、という二つのカセである。何でもありと言っても、この二つの掟を破ることだけは許されなかった。だから、今だにやりたくてやれないネタが二つある。それは「俺たち何で殺さなきゃいけないの?」「知るかヨ」と言いながら人を殺す物語と、「俺たち何で死ななきゃいけないの?」「知るかヨ」と言って死んでゆく物語だ