『過激派オペラ』極端と普遍    加藤智宏(office Perky pat)

 江本純子作品はこれまでに舞台を一本しか観たことがない。10年くらい前に本多劇場で上演された劇団毛皮族『脳みそグチャグチャ人間』という作品だ。目的は町田マリーを見たかったことにある。当時、この二人を中心とした劇団毛皮族は何かと話題になっていた。それから月日が経ち、劇団毛皮族は昨年活動を休止し、江本純子も単独での活動が増えてきた。彼女は2006年に処女小説『股間』を世に出し、今回の『過激派オペラ』はそれを元にしているようだ。江本作品はエロスを謳っているが、実際観てみると、そこにあるのは健康的なエロスだ。これは男性の思うエロスと女性のそれとの違いから来るものなのかは分からない。そもそも、その言葉の響きから何となく淫靡なイメージを受け取ってしまうのは、男性特有のことなのかもしれない。エロスは、その言葉を紐解くと「受苦としての愛」ということらしい。言うなれば「葛藤や苦しみを含む愛の感情」という「表沙汰にできない密かな気持ち」がエロスに含まれているのかもしない。「表沙汰にできない」という辺りから淫靡さが漂ってくるのかな、と感じているのは筆者だけか。

 『過激派オペラ』は、小劇場系劇団を舞台にしている。小劇場とは1980年代から活発になる演劇活動で客席数100名程度の劇空間で行われる公演を指すことが多く、それ以前はアングラと呼ばれていたというのが筆者の認識である。女性演出家の重信ナオコ(早織)は、劇団「毛布教」の旗揚げオーディションにやってきた岡高春(中村有沙)に恋をしてしまう。重信はどうやら同性が恋愛のターゲットのようで、彼女は岡高に気持ちを打ち明ける。そのやり方が単刀直入で、重信の勢いに岡高はその場から逃げ出してしまう。しかし、逃げ出したものの重信の演出に憧れる彼女は翌日の稽古には普通にやって来ている。やがて、岡高も重信の気持ちを受け入れていくことになる。そのまま二人の関係は成就されるかのようだったが、そこに嫉妬、疑い、葛藤などが渦巻き、劇団員を巻き込みながら、複雑な感情と人間関係が描きだされていく。

 この作品を観ながら思ったのは、彼女たちが抱く諸々の感情がとてもサバサバと描かれていることだった。性差による比較はできないが、男性監督が描いたとしたら、もっと未練が残ったように思われる。この映画に登場する人物はほとんどが女性だが、共通して過去を振り返るのは一時的なことで、すぐに次を見つめているような視線を彼女たちに感じた。唯一登場する男性は、岡高の彼氏であり共に劇団をやっていた人物なのだが、彼は彼女が新しい劇団へ入ることを拒もうとする。そこに「男性の未練がましさ」があるように感じられた。作品に描かれるまでもなく、女性の方がサバサバとし、男性の方が未練タラタラだというが筆者の考えである。

 この映画の見どころはいくつかある。筆者が一番気になったのは上記の感情における性差なのだが、演劇に携わる者として、この舞台が小劇場活動を基盤にしていることも興味深く映った。世間的には中々認知されない小劇場界隈だが、昨今の映画やテレビドラマを観ていると、小劇場を基盤にして活躍している人も多い。もっとも、脇を固める俳優の何人かが小劇場系の出身だということを小劇場というものを知らない視聴者は知る由もない。

 この作品で扱われる演劇環境は幾分誇張されている部分もあるが、概ねその通りだと感じた。オーディションにやってくる面々は社会の中からは弾き出されそうな妙な者ばかりだし、やっている演劇は訳が分からない内容だ。日常的にその環境に暮らす私とは違い、一般の人たちに、この映画で描きだされている状況は奇妙と映ったかもしれない……、と以前なら思っていただろう。ところが「そうではないな」と思うようになった。こうした歪んだ状況(表現という誇張はあると思うが)は、一般社会でも普通に経験しているのだと思う。そもそも「一般」や「普通」とは一体何か? と問うとその答えは出てこない。それは多数でもなければ、平均でもないと思うからだ。つまりこの作品で描かれていることは「過激」でも「極端」でも「誇張されたもの」でもない。当たり前に存在する人間関係や人の感情を、小劇場系劇団というコアな状況で描きだしているに過ぎないのであって、会社や学校などのどんな集団にも十分にあてはまることではないだろうか。

 私がこの作品に感じたことは、一見極端な状況を用いながら普遍性が描きだされているということだ。江本純子の作品に健康なエロスを感じるのは、彼女の視点が普遍性に向けられているからなのだと思う。