『ジョギング渡り鳥』という体験    鈴木 創(シマウマ書房)

 学生時代に東アフリカを旅したことがある。ケニアからタンザニアにかけて野生のヌーが大移動する季節で、地平線まで見渡す限りのサバンナに、かき集めれば佃煮にできそうなほどのヌーの大群がいた。その光景を眺めていて思ったのは、サン=テグジュペリの星の王子さまが地球にきた時に出会ったのがヘビとキツネだったように、もし今この場所に宇宙人が降りてきたら、地球というのは人ではなくヌーの星として理解するだろうということだった。

 この映画でもモコモコ星人という宇宙人たちが地球にやってくる。降り立ったのはカモや白鳥などの渡り鳥が飛来する川べりの町、入鳥野(ニュートリノ)町。そこには毎朝、出勤前にジョギングをする人たちや、コースの途中で休憩のお茶を配る人など、いつも同じ時間帯に顔を合わせる人々の緩やかな集まりの場ができている。

 モコモコ星人に人への敵対意識はない。その代わりに、何かの記録なのか、単なる好奇心なのか、彼らは目の前にいる人々の行動をひたすら撮影し続ける。初めはその様子からいわゆるメディアスクラム、マスコミによる過熱取材の場面を連想したが、モコモコした身なりの彼らが集音マイクとカメラを手に人々を追い駆ける姿は愛らしくもあり、むしろ宗教画に描かれた守護天使のようにも思えてくる。どうやらモコモコ星人というのは、地上で暮らす私たちの姿を気づかないところで見守り続けてくれる存在であるらしい。

 この作品は、鈴木卓爾監督が講師をしている映画美学校出身の若手俳優たちが埼玉県の深谷市で合宿をしながら制作したものだという。しかも今回、彼らは俳優としてだけでなく、音楽や衣装、演出、小道具、音響効果など裏方のスタッフの仕事も自分たちで担当している。さらには、いずれの俳優も町の住人を演じるのと同時に、モコモコ星人の役も兼ねている。

 つまり、たとえばジョギングランナーの役の俳優が、別のシーンではモコモコ星人を演じながら人々の行動にカメラを向けていて、そこで実際に撮られた映像も作中で使われていたりする。そんな具合に「撮る/撮られる」という行為が幾重にも入り組んだ作られ方をしているので、画面のなかのストーリーも現実と非現実が混ざり合った不思議な感触の世界になっている。

 その現実の部分を担う、登場人物たちの日常的なふるまいや自然な表情に共感するところが多かった。彼らはそれぞれに悩みや不安を抱えて日々を送っている。毎朝のジョギング仲間といっても自分の生活のたまたまの交点にいる者同士で、必ずしも心から打ち解けているわけではない。だが、そこにモコモコ星人という外からの視線が紛れ込み、対峙する構図になってみると、この町、この地上に生きる者のぼんやりとした連帯のなかにあることが見えてくる。見上げた空の渡り鳥に憧れながらも、自らは足元にある限られた生活圏のなかで生きていくしかないこの現実は、私たちの多くに共通することでもある。

 冒頭に原発事故についての言及があるように、この映画もまた3・11以降の状況と切り離すことは難しい。かつて作家の安部公房は、繰り返される戦争や災害を踏まえて「人間の歴史はけっきょくのところ、さまざまな不安定要素に対して日常を拡大しつづける努力だったのだ」と書いていた。しかし今はそれを逆手に取るかのように、信頼に足るとされるメディアも意図的に日常を装うところがあり、大丈夫ですよ、これまでと何も変わりありませんからと、報道、娯楽のコンテンツを問わず、震災以前と変わらぬ作法で整えられた情報や表現ばかりが発信され、世の中に影響を与えている。そのことで抜け落ちている事柄がいかに多いかを思うとき、むしろ尊重すべきは今の時代に「間尺に合わない」とされる考え方や行動で、こうした自主製作映画の意義もそこにこそあると感じている。

 姿が見えなかったり、モコモコしていたり、片手がなかったり。飛び交う宇宙語や竹トンボ、不安定に揺れる画面……。この映画にはノイズな要素が多く、すぐにはよくわからない場面もある。でも、だからこそ2時間半を超える長い上映時間をかけて全体を目の当たりにしてみると、自分でもよくわからない心の揺れを体験する。とくに終盤の(それまでの伏線を回収しているのか、していないのかもよくわからなような)ドラマティックな展開は、海を越える渡り鳥のように隊列を組みながら、画面のなかの人々の精一杯の生き方が、どっとこちらに溢れてくるようだった。