富田克也(監督)相澤虎之助(脚本)
『バンコクナイツ』トークイベント
《空族のはじまりから》
富田──『サウダーヂ』(富田克也/2011年)を撮ってから約4年、日本とタイを行き来しながら、少しずつ作ったのが『バンコクナイツ』です。僕たちは、【空族】というチームを組んで17年ほど映画を撮っています。相澤と出会う切っ掛けは、『花物語バビロン』(相澤虎之助/1997年)を観たことでした。タイとラオスとミャンマーに跨る“ゴールデン・トライアングル”という嘗て阿片の生産地として悪名を馳せた場所で、山岳民族のモン族がケシを栽培させられていた歴史があります。現地でカメラを回した、ある時期のゴダールっぽい感じの映画で す。「俺のライフワーク【アジア裏経済三部作】の一部だ」って言うんです。
相澤──トゥクトゥクの停車場やバス停どこへ行っても3つのことを聞かれました。「女は要るか? ドラッグをするか? 銃を撃つか?」で……。「手榴弾投げるか? バズーカ撃つか?」っていうのも(笑)。東南アジアには、裏経済が回ってるんだと思いました。麻薬と売春婦と銃(武器・戦争)。それを映画にしたくて、バックパックに8mmカメラを入れて旅をしてたんです。
富田──第一弾が麻薬の『花物語バビロン』で、第二弾が戦争を扱った『バビロン2 —THE OZAWA—』(相澤虎之助/2012年)なんですよね。空族としては『国道20号線』(富田克也/2007年)から相澤の脚本を僕が監督をする共作が始まりました。『国道20号線』を撮り終えて初めて行った外国がカンボジア。大きな白人のオジさんが現地の小さな女の子の手を引いて往来を歩いていました。当時は幼児売春がまだあったんですね。色んな価値観が崩れ去って、そこから『バンコクナイツ』に辿り着きました。当時は東南アジア直行便がないので、必ずバンコクがハブになりました。タニヤ通りは圧倒的な場所で、いつか必ずここで映画を撮りたいという想いを共有していたんです。
《イサーンへ、そしてベトナム戦争の影》
相澤──タニヤでタクシーの運ちゃんや女の子達に聞くとイサーン出身がほとんど。
富田──イサーンはタイの東北地方19県の総称で、アピチャッポン・ウィーラセタクン監督もテーマとしてきました。現地の魅力的な音楽のことごとくは、イサーン地方から発信されていることも知りました。カンボジア、ラオスとの国境地帯ですので古来から紛争もあります。歴史に翻弄され、自分たちのアイデンティティの為にも音楽が育まれていったんじゃないかと。一言でいうと、“レベル(rebel)ミュージック”。身売りされていく姉や妹のこと、貧困について……そういうことが歌われている音楽です。その中に“モーラム”というのがあります。直訳では「語りの達人」、音楽というか語り芸です。
相澤──非常に厳しい現状を歌いながら、音楽は明るい……ダンスミュージックなんですよね。アジアのプロテストソング、レベルミュージックということで、『バンコクナイツ』のサウンドトラックに成り得ると思いました。街でも村でも音楽が大きく鳴ってるタイの雰囲気を出したくて、僕たちの映画でここまで音楽を入れたのは……。
富田──ないですよね、他には。というのは、撮りながらどんどん音楽に鼓舞されるような映画で。話が前後しますが、東南アジアにこれだけ売春地帯が点在しているのは人為的なものです。原因は、やはりベトナム戦争なんですよね。ベトナム戦争従軍兵士達の保養と休暇のための【レスト&レクリエーション条約】が原型。
相澤──ベースキャンプがどんどん造られ、その周辺に娼街が作られたということ。
富田──イサーンの森はベトナム戦争時代にバンコクの親米軍事政権と対立して逃げ込んだ人々が、解放区のラジオ局で死んだ仲間達を歌った場所なんです。当時ボブ・ディランのような戦争に反対するフォークソングが歌われましたが、タイの代表的なバンドが【カラワン】です。カラワンのリーダーであるスラチャイ・ジャンティマートンさんが『バンコクナイツ』にイサーンで殺された詩人チット・プーミサックとして出てくれています。この映画に出ている女性陣は、全員現役バリバリですし、“オザワ”が銃を買う相手は、本当に元グリーンベレーの方です。
相澤──ちょっと深く関わっていくと、ベトナム戦争がまだまだ透けて見えてきます。
富田──エンディング曲は『満月』。アッサニー・ポンラチャンというラオスで客死したタイの戦闘的詩人が故郷にいるお母さんを想って作った詩が『満月』です。
相澤──“微笑みの国”とか言われていますけど、そういう横たわってる物も……僕たちは映画を撮る上で、物語の中に必ず入れなきゃならないって思ってるんです。
('17年5月5日名古屋シネマテークにて。
特別協力=髙橋アツシ 構成=編集部)