『フランコフォニア ルーヴルの記憶』を見て
山田 諭(名古屋市美術館 学芸員)
アレクサンドル・ソクーロフ監督の映画とは何故か縁遠くて、話題となった『太陽』も『エルミタージュ幻想』も見逃している。最新作『フランコフォニア ルーヴルの記憶』は、ルーヴル美術館に関する映画とのことで、先入観なしに見はじめたのだが、冒頭のクレジットに重なるように、いきなりロシア語の電話(スカイプ?)での会話が延々と続いて面食らった。どうやら大西洋上にある輸送船の船長からの通信らしく、悪天候に見舞われて、積載している美術品コンテナが危険に晒されているらしい。このような「歴史に翻弄される美術館」の隠喩と思われるプロローグから、ソクーロフの独白によって、第二次世界大戦下、ナチス・ドイツに占領された無防備都市パリに取り残されたルーヴル美術館を巡る物語が語られる。
占領を予見して、ルーヴル美術館の美術品をパリ郊外の城に密かに移動させた館長ジャック・ジョジャール。戦禍を恐れて美術品を疎開させた経験のあるナチス・ドイツの文化将校フランツ・フォン・ヴォルフ=メッテルニヒ伯爵。フランスの民主主義者とドイツの貴族。敵対する二人の主人公は、疑心暗鬼に苛まれながらも、美術品を守る使命感によって結ばれている。ジョジャールから美術品の疎開先リストを渡されても、祖国に移送することのなかったメッテルニヒ。ヨーロッパの歴史を象徴する文化遺産としてのルーヴル美術館の美術品を保護することは、「フランコフォニア」の人々(フランス礼讃者)にとって、国家を超えた使命であった。
一方で、ナチス・ドイツの侵攻に大した抵抗もせずに降伏したフランスに対して、レニングラード攻防戦を最後まで戦い抜いたソ連は、甚大な犠牲を払いながら、エルミタージュ美術館を放置、荒廃させた。しかし、このソ連の勝利によって、ナチス・ドイツの敗北は決定的となり、パリは解放され、ルーヴル美術館は守られたのではないか、ロシアの監督としての抑えきれない憤懣の念も滲んでいる。
ルーヴル美術館は、現代の美術館の原点となった美術館の一つである。フランス革命によって、ルーヴル宮殿に所蔵されていた王家の美術品コレクションが市民の財産となって、一般公開されたことにはじまり、皇帝ナポレオンの侵略戦争の勝利による略奪品がコレクションを豊かにした(返還されたものも多いが)。
映画のなかで、自由の女神マリアンヌが「自由、平等、博愛」と呟き続けるのも、皇帝ナポレオンが「私が集めたものだ」と豪語するのも、この史実を踏まえた幻想である。マリアンヌが、ドラクロアの《民衆を率いる自由の女神》に描かれたような勇敢な姿ではなく、憔悴しているのは、「自由、平等、博愛」を踏みにじるナチス・ドイツの占領下にあるからなのかもしれない。またナポレオンは黙して語らないが、宿敵に奪われた美術品もある。エジプト遠征軍が発見した古代エジプト文明の遺品で、ヒエログリフ解読の鍵となった《ロゼッタ・ストーン》は、現在、ルーヴル美術館ではなく、大英博物館に展示されている(が、エジプトは、合法的に流出したとはいえ、国家にとって重要な文化財として、執拗に返還を要求している)。
さて、このような歴史を歩んできた「美術館とは何か」と問われたとき、何と答えればいいのか、ご存じだろうか。
国際基準の模範解答は、「社会とその発展に貢献するため、有形、無形の人類の遺産とその環境を、研究、教育、楽しみを目的として収集、保存、調査研究、普及、展示を行う公衆に開かれた非営利の常設機関」である。これはICOM(国際博物館会議)の規約に明記された「定義」であり、これが美術館の社会的な役割となる。
「公衆に開かれた非営利の常設機関」の部分をわかりやく言い換えるならば、「特権のある人だけではなく、一般に公開されていて、金儲けのためではなく、必要最低限の入場料(基本は無料)だけで利用でき、限られた短期間ではなく、ある程度の長期間、定期的に開館している建物(展示室、収蔵庫など)と専門的な活動(収集、保存、調査研究、展示など)を遂行できる職員組織を備えた施設」になる。
日本の美術館にとって「冬の時代」と言われて久しいが、このような美術館の役割と現状を知っていただければ、美術館と美術品を守るのは、「フランコフォニア」の人々に限られることではなく、また戦争の時代だけの問題ではないことを理解していただけるのではないだろうか。